FLAGS

2013年8月11日日曜日

【魚拓】横浜開港とバーの歴史 (oka01-bvdchuyklymmxdhl)

横浜とバーの関係について調べてみた。

横浜開港とバーの歴史

http://8721.teacup.com/takeoshigeki/bbs/15

 今年、2009年で横浜は開港150周年を迎える。ペリーが来航し開国して以来、数多くの外国人商人や海外の文化が入り込み、衣食住を始めとする、今日の私たちの生活にも深く影響を与えている。どうやら日本人は海外の文化を日本流にアレンジする能力に長けているらしく、それが唯一無二の文化を生んできた。横浜は海外文化に触れる場所としては最適だったために、特に飲食に関しては、横浜を発祥とする文化が非常に多い。その一つが、バー文化だ。今日でも、桜木町、関内駅周辺には数多くのバーが点在している。時にはこの社会に生きる人々の癒しとなり、また常連同士の交流の場ともなっている。成人したばかりの私も、「大人の隠れ家」とも言えるこの洒落た世界に、魅了されている一人だ。私のように、こだわりのある魅力的なバーにあしげく通うファンも多く、今では横浜の一つの立派な文化になっているのである。はたして、バー文化はどのようにして、ここまで発展したのであろうか。

 遡ること1860年、現在ではフレンチレストラン「かをり」が建つ横浜市中区山下町70番地に「ヨコハマ・ホテル」という名の日本発の洋式ホテルが建設された。当時、西欧諸国に追いつく為、服飾から始まり、料理、建築物、さらにはジャズなどの音楽に至るまで、あらゆるものが西洋化されていく時代であった。当時、貿易の中心地であった横浜は、外国人の様々な役人や商人などで大変賑わっていた。横浜に届けられた新鮮な文化は、徐々に日本風に改良され、生糸貿易の為に整備された道路を伝って、商品と共に日本中へ伝播した。このように、横浜はその他の都市よりも直接的に異文化の影響を受けてきたのである。
そのため、横浜は海外から来る客人をもてなす為に、接待の方法から設備まで揃えなくてはならなくなった。そういった流れの中で作られたのがこの「ヨコハマ・ホテル」だ。ここで生まれた「プールバー」が、日本のバーの始まりだとされている。先に述べた様に、このホテルやプールバーといった施設は日本人を顧客としたものではない。やってくるのは、味の肥えた文明をすでに経験している外国人たちである。彼らの厳しい要求に答えるうちに、日本のバーテンダー達は技術を磨いていった。こうしたホテルの厳しく格調高い雰囲気の中で洗練されたバーテンダー達は「ホテルバーマン」と呼ばれ、海外から来た上流階級の厳しい要求に答えながら、着々と実力をつけていった。日本人向けのバーが登場するのは明治維新よりも後の事で、現在の銀座に1911年に創業した「カフェ・プランタン」が最初の店であると言われている。この店を皮切りに、都内でも1000軒以上のバーが営業していたという。

 さて、この「ホテルバーマン」であるが、彼らの活躍が現在にバー文化を残したといっても過言ではない。後に大衆化されたバーであるが、むしろ人気があったのは高くて豊富な種類の酒が飲めるホテルバーだった。その人気が結果として、日本のバー文化を支える事になる。それは、第二次世界大戦によって、酒の自由売買が規制された上、バーの営業そのものが禁止となった中でも、ホテルバーだけは海軍将校のために営業が許されたという事実が表している。しかし、彼らはまたしても、味にうるさい外国人客に悪戦苦闘しなくてはならなくなった。どのような味なら彼らは満足してくれるのか、店内の雰囲気や新しいカクテルの可能性はあるか、などといった試行錯誤が生み出したノウハウのおかげで、規制が緩和されると、「ホテルバーでは他では味わえない酒を飲める」と、多くの客がつめかけた。このように、ホテルバーは、日本における「カクテル」の流行をリードしてきたのだ。
こうして洗練された日本の実力あるバーテンダーのおかげで、大衆化されたバーが多く登場し、誰もが手軽にカクテルを楽しめるようになったのだ。またこれにより、上流階級や味にうるさい客を相手にした「ホテルバー」と、安く簡単に洋酒が飲める街のバーとに、二分化したといえる。もっとも、そのおかげで多くの人が洋酒に手軽に手を出せるようになったのだ。

 だが、大衆向けのバーでは、また少し違う様相を呈していたようである。横浜近辺、特に中華街のバーは戦後当初、ホステスが客人の隣に座ってもてなすという、いわゆるキャバレーのような営業形態だった。これも世界各地から集まる多くの船員たちが主な客で、また経営側も外国人であった例が多かったという。血気盛んな軍人たちがひしめくバーが軒を連ねる中華街の裏通りは「ハッピーアベニュー」と呼ばれる一方で、喧嘩が絶えなかったために「ブラッドタウン」(血なまぐさい街)とも呼ばれ、日本人は決して裏通りに足を踏み入れることはなかった。

 このような独特な発展をした「外国人による外国人のためのバー文化」だが、1970年に入ると、徐々に外国人の足が遠のき始める。なぜなら、アメリカのベトナムからの軍事撤退に伴って、横浜に駐留する軍人の数が減少した為である。さらにコンテナ船が主流になった事も原因の一つで、物資の積載に使う労力が大幅に軽減された為に、船員が日本に滞在する期間が劇的に短くなったのである。この影響を受けて営業不振に陥ったバーは、日本人向けのパブやスナックに形を変えたり、店を日本人に譲ったりして、難を逃れた。この頃から、日本人も積極的にバーの経営などにも参加できるようになり、現在の横浜の西洋風の雰囲気を残した独特の形態となった。またこの事でバリエーションも多岐にわたるようになり、オーナーのこだわりが色濃く繁栄されるようになったのだ。

 現在横浜のバーは大きく分けて三種類あり、一つは、カウンター越しにマスターと客が語らい、奥には100種類を超えるリキュールがズラリと並ぶ隠れ家のような雰囲気の「オーセンティックバー」で、最も一般的である。関内に位置する「FULL  MONTY」というお店はこのタイプに属する。外国人のオーナーが働く店で、サッカーのイングランド代表をこよなく愛する居心地の良い店だ。二つ目はお酒の他に料理が売り物の「レストランバー」、そして3つ目がお酒とライブなどの音楽がメインの「ミュージックバー」だ。横浜スタジアム前の通り沿いにある「ヒットパレード」では、カクテルのオーダー表と一緒に、店長お勧めの音楽の注文表が出てくる、非常にユニークな店で、これも「ミュージックバー」の一種である。

 このような数々の名店を残す横浜であるが、それは横浜が如何に西欧文化と日本をつなぐ橋渡しの役割をしていたか、そして、どれだけ開国が重要であったかを表している。横浜の街を歩くと、明治維新当時にタイムスリップしたように感じる事が私にはあるのだが、それはきっと、建造物が昔のままだからでも、赴きあるバーが点在するからでもない。横浜が、日本の近代化にとって、そして今の生活を送る事の出来る私たちにとって、特別な場所であるからなのだ。今年は開国150周年を迎える記念すべき年だ。これを機会に、今一度私たちの身の回りの文化を再検討してみるべきではないだろうか。


「バーの歴史~日本でのバーの盛衰史」
http://www.sapphireinspiredbar.jp/barbuzz/000090.html


横浜らしさ」を残す最後の空間?深夜の中華街を彩るバーの魅力―ヨコハマ経済新聞―
http://www.hamakei.com/special/95/






「バーの歴史~日本でのバーの盛衰史」

http://www.sapphireinspiredbar.jp/barbuzz/000090.html
October 3, 2007

横浜・山下町にある「横浜ホテル」のプールバーが、日本ではじめてできたバーであることは前回お伝えした。さて、今回はその後のストーリーをお話しましょう。

当時、バーを利用するのはもっぱら横浜港で商売をする外国人商人だった。日本人が洋酒をたしなむようになるのは明治維新が過ぎた頃。日本人が「カクテル」という酒の楽しみ方を知ったのは、ジンが上陸したのがきっかけとも言われている。同時に、この頃になってやっと、「日本人がつくる日本人のためのバー」がつくられたのである。

その発祥は、「カフェ・プランタン」――1911年3月、京橋日吉町、現在の銀座8丁目にオープンした、珈琲と酒の店――と言われている。「カフェ・プランタン」は、カフェとしてもバーとしても、“日本人がつくる日本人のための”はじめての店だったという。

その後、1923年の関東大震災を経て一時的にバーは減ったものの、復興とともに次々にバーがオープンしていき、東京都内でも1000軒を超えるバーが営業していた。

一方、日本初のバーがホテルで誕生したように、日本ではホテルとバーは切っても切れない関係であった。街に増えゆくバーと同じ、またはそれ以上にホテルバーも発展していった。特に、明治末期から昭和にかけて、日本で「カクテル」の流行をリードしていったのはホテルバーではないだろうか。その中でも、1873年創業の横浜グランドホテルは、最先端のカクテルを味わえるとして人気を呼んでいた。

前回の「バーの歴史」でも述べた通り、横浜のホテルバーは横浜港で商売をする海外のゲストが多く利用していた。そのため、カクテルの好みもうるさく、日本人のバースタッフはオーダーひとつとるのにも、手を焼いたそうだ。リクエスト通りのカクテルを出せるまで、妥協は許されない。そんなゲストの対応をしていくうちに、バーテンダーとしての知識、技術、そしてセンスが磨かれていき、今日の「ホテルバーマン」として成長していった。

やがて、第二次世界大戦の影響を受け、酒の自由販売が規制されたうえ、バーの営業禁止令により、カクテルだけではなく街のバーそのものが低迷する時代となる。それに対し、ホテルバーは米軍将校のために営業がゆるされていた。ここでも、味にうるさい外国人ゲストのリクエストを叶えるために試行錯誤したため、日本のホテルバーマンはさらに実力を身に付けていった。このことが、戦後から今日までのカクテル文化・バー文化を築いていく基盤になっていった。

戦後、そんな彼らの努力が実ったのか、日本では第一次カクテルブームが訪れ、誰もが自由に洋酒やカクテルを楽しめる時代となった。同時に、街のバーは一般大衆向けで安く酒が飲める場、ホテルバーは本格的な洋酒が楽しめる格調高い空間として、文化は二分されたのである。

しかし、現在は街のバーとひとことで言っても、オーナーのこだわりが生きた独特なムードを楽しめる店や、居心地のよい馴染みのある空間を提供している店など、そのタイプはさまざまだ。

ホテルバーと街のバー、それぞれに歴史があり、それぞれに良さがある。
その時の気分やシチュエイションによって使い分けていただきたい。






「横浜らしさ」を残す最後の空間?深夜の中華街を彩るバーの魅力―ヨコハマ経済新聞―

http://www.hamakei.com/special/95/
2006-01-12

中華街が位置する山下町界隈は、日本におけるバー発祥の地でもある。そして、今でも中華街は約40軒ものバーが集まる横浜の「バーのメッカ」。だが、このことは意外に知られていない。今回は「中華料理の街」とは違う「バーの街」という中華街のもう一つの顔をレポートする。

■日本のバー発祥の地は山下町

「中華街の夜は早い」とは、よく言われる言葉である。確かに、午後10時近くともなると、街に軒を連ねる中華料理店の多くは店じまいの準備を始める。だが、中華街は「これからの時間」が楽しいのだ。中華街が位置する山下町界隈は、実に約40軒ものバーがひしめくエリアでもある。「食事をする場所」というイメージが強い中華街だが、「バーの街」という違った一面も持っている。いや、日本のバーの歴史を紐解けば、「バーの街」という言葉こそが中華街には相応しいのかもしれない。

横浜中華街 公式ホームページ そもそも、日本におけるバー発祥の地が山下町なのである。1860年、横浜市中区山下町70番地(現在のレストラン「かをり」本店所在地)に、わが国初の洋式ホテル「ヨコハマ・ホテル」が建てられた。そのホテルに併設されたプールバーこそが、日本のバーの始まりだとされている。「バンブー」「ミリオンダラー」「チェリーブロッサム」といったカクテルは、いずれも横浜オリジナル。そして、現在も中華街のバーにはそうした歴史と伝統が息づいている。だが、横浜がバー発祥の地であることは、意外なほど知られていない。こうした現状を打破しようと開設されたのが、「横浜BARマップ」というホームページである。

フレンチレストラン横浜「かをり」
 

■横浜市内のバーが連携してPR

「横浜BARマップ」は横浜のバーの認知度を高め気軽に利用してもらおうと、横浜のバー経営者やバーテンダーの有志たちが運営する「横浜バーネットワーク」によって2003年に開設された。その発起人の一人である中華街のバー「GREAT WALL」(グレートウォール)のオーナー陳学升さんは、こう話す。「『中華街イコール中華料理』というイメージが強すぎて、ずっと気になっていたんですよ。中華街には全国各地から多くの観光客が訪れますが、その目的の多くは中華料理店での食事であって、中華街にバーが集っていることなんて知られていない。中華街には料理以外の別の楽しみ方があることをもっと知ってもらいたいですね」。

ホームページでは横浜のさまざまなバーが紹介されているが、これらは全て横浜で活躍するバー関係者が推薦する、いわばプロのお墨付きのバーばかり。「横浜バーネットワーク」は決して「○○○協会」といったような確固たる組織ではない。あくまでも、横浜のバーを盛り上げるために何かがしたい、という有志たちの緩やかな連携だ。

ホームページで横浜のバーを紹介するほか、チャリティキャンペーンも主な活動の一つ。これはキャンペーンに参加するバーである特定のカクテルを飲んだら、その売上の一部を寄付するというバーならではのキャンペーンで、言ってみれば「カクテル基金」のようなもの。ホームページ開設以来続けられており、今回で3回目を迎える。「酒飲みっていうとワルのイメージがあるんで、そのイメージを払拭できれば」と陳さんは笑うが、その根底には横浜のコミュニティーとよりよく共存していきたいという、陳さんら「横浜バーネットワーク」面々の思いがある。

横浜BARマップ
 

■140年以上の歴史という独特の魅力

中華街の地久門そばにある陳さんのバー「グレートウォール」は、ダークオーク調のカウンターが渋い大人の雰囲気を醸し出すオーセンティック(正統的)なバー。選び抜かれた上質なものだけでしつらえられた内装は、バー発祥の地・横浜ならでは。ジャズのBGMを聴きながら、経験豊富なバーテンダーが搾りたてのフルーツを使って作るカクテルが楽しめる。中華街生まれの陳さんは自宅ビルの建て替えを機に、商社マンを辞して19年前にこのバーを開いた。

約40軒ものバーが集る中華街――。他の地域では見られない独特の魅力とは何だろうか。「140年以上続くバーの歴史の重みでしょうね」と、陳さんは言う。そうした歴史や伝統はさまざまな点に垣間見られる。例えば、横浜のほとんどのバーでは、チャージを取ることはない。「昔の横浜のバーは外国人相手だったから、『キャッシュ・オン・デリバリー』(1杯飲むごとに料金を支払うシステム)という外国の習慣がそのまま採り入れられていた。チャージを取らないというシステムは、その名残りなんですよ」。

GREAT WALL また、連綿と続くバーの伝統を受け継いでいるという自負が、中華街の各バーの団結を強めている。中華街というエリアに決して少なくない数のバーがひしめく中、そこには「商売敵」という発想はない。「中華街のバー関係者はほとんどが顔見知りで、本当に仲がいい。こんな地域は他にはないかも」と話すのは、バー「MELLOW CLUB」(メロウクラブ)マスターの中田裕之さん。

■徒歩ではしご酒が楽しめるエリア

「メロウクラブ」は、山下公園にほど近い隠れ家的なバー。カウンターの奥には140種以上を超えるアルコール類がズラリと並び、アンティークなインテリアによる上品で落ち着いた雰囲気はゆったりと飲みたい人にはうってつけ。同店のオススメは特製のモスコミュール。ショウガを漬けた特製のウォッカをベースに、真鍮製のマグカップという本来のスタイルで供されるこのカクテル、ぜひ一度は試してみたい。

「一つのエリアにこれだけバーが密集していると、徒歩でいろんなバーをはしごできる。これも中華街のバーならではの楽しみ方ですね。常連の方はほとんどのバーに顔を出されますから、同業者の間で客の取り合いなんてことはあり得ません(笑)。そんなところも、中華街のバー同士が仲のいい理由の一つなのでは」とは中田さん。

中華街のバーは時代の流れの中で、外国人船員向けのバーから、その面影を残しつつ日本人向けのスナックやパブなどに形を変えながら発展してきた。ここで中華街のバーの歴史を振り返ってみたい。

■始まりは外国人相手のバーだった

中華街で30年以上の歴史を誇る老舗バー「Windjammer」(ウインドジャマー)オーナーのジミーさんは、往時の中華街のバーの興隆を知る一人だ。「朝鮮戦争当時の中華街には、138軒ものバーがあった。そのほとんどが、米軍関係者や横浜に立ち寄る世界各国の船員などの外国人相手に営業をしていました」。1950年代から現在まで、中華街のバーを見続けてきたジミーさんはこう語る。

バーといっても当時は現在のそれとは形態が異なり、来店客の傍らでホステスの女性がサービスするグランドキャバレーやサパークラブのようなものだったという。「当時、女性が付かない現在のようなバーは『コペンハーゲン』ぐらいしかなかったね。格調高くて立派なバーだったけど、一昨年に閉店してしまった。残念ね」。

ジミーさんによれば、酒と女を求めて外国人が殺到した当時の中華街の夜は、現在では考えられないほどの活況を呈していたという。中華街の裏通りには多くのバーがひしめき合い、「ハッピーアベニュー」と呼ばれていた。また、たださえ血の気が多い軍人や船員が集り、酒と女が絡むだけに血なまぐさい暴力沙汰も絶えなかったという。「あまりのケンカの多さに、昔の中華街は『ブラッドタウン』(血なまぐさい街)と呼ばれていたね(笑)。今の中華街は安全な街だけど、当時は物騒な街として知られていて、一般の日本人は本通りを歩くことはあっても裏通りには足を踏み入れなかったよ」。

■1970年代を境に様相が変化

外国人バー、船員バーとして興隆を極めた中華街のバーの様相が変わり始めたのは、1970年代に入ってから。まずアメリカのベトナムからの軍事的撤退に伴い、横浜駐留の米軍兵の数が目に見えて減少し始めた。また、横浜港に入港する船舶もコンテナ船が主流となり、朝入港して夜出港するといった具合に外国人船員が横浜に滞在する期間が劇的に短くなった。こうした外国人客の減少に、中華街のバーも日本人相手に鞍替えすることになる。「当時、外国人経営者は20人いたけれど、ほとんどが廃業したり経営権を日本人に譲渡したりして母国へ帰国したね。今でも当時の船員バーの雰囲気を残しているのは、ノルウェー人船員だった旦那さんの死後、今のママでもある奥さんが経営を引き継いだ『ニューノルゲ』ぐらい。1975年ぐらいには、ほとんどのバーが日本人相手のスナックやパブに変わった」と、ジミーさんは当時を振り返る。

1960年代後半に軍属としてベトナムへ赴いていたジミーさんが、横浜へ戻って来たのは1972年のこと。同年にオープンさせたのが、「ウインドジャマー」である。19世紀の帆船をイメージしノルウェー人の大工が実物をあしらって造ったキャビン風の内装が印象的なこのバーは、テレビドラマのロケ地にも選ばれたこともあるのでお馴染みの方も多いだろう。また、毎晩開催されるジャズライブも同店の売り物の一つだ。

■横浜に惹かれてバーを開業したギリシア人

西門通りをはさんで「ウインドジャマー」の向かいにあるのが、ギリシアスタイルのレストランバー「ATHENS」(アテネ)。ここでしか飲むことができないギリシア産リキュールのほか、「ムサカ」や「ヒコイワシのフライ」などのギリシア料理も人気だ。また開店以来、バーテンダーなどスタッフ全員が女性であることも、同店の大きな特徴。
「中華街のアットホームな居心地の良さに、ついつい10年も働いちゃってます」と笑うのは、バーテンダーの設楽知美さん。将来は自分の店を持ちたいという。そんな彼女が紹介してくれたのが、中華街のバーでも名物オーナーとして知られるギリシア人のジョージさんだ。「まあ、中華街のバーのオーナーのみなさんは、いずれも濃いキャラの名物オヤジばかりですけどね(笑)」。

船乗りだったジョージさんが、中華街に「アテネ」を開いたのは約20年前のこと。それまでは曙町で船員バーを経営していた。ちなみに1960年代ぐらいまでは、中華街はアメリカ系や北欧系のバー、曙町はギリシア系のバーといった具合に、外国人バーも地域によって棲み分けがされていたという。「今でこそ少なくなったけれど、私が日本へ来た当時は横浜には外国人がたくさんいて、インターナショナルな雰囲気に溢れていました。インターナショナルな港町という横浜をすっかり気に入って、船員を辞めて横浜でバーを経営することにしたのです」。

■中華街で異彩を放つアメリカンスタイルのバー

中華街のバーは大きく三つのジャンルに分けられる。一つは、バーの王道である「オーセンティックバー」。前出の「グレートウォール」や「メロウクラブ」はこの範疇に入るだろう。二つ目は「アテネ」のように、お酒とともに料理が売り物の「レストランバー」。そして、三つ目はお酒と音楽がメインの「ミュージックバー」。ジャズライブを毎晩行っている「ウインドジャマー」は、ミュージックバーの代表格だ。

玄武門入り口そばにある「FLASH BACK CAFE」(フラッシュバックカフェ)は、中華街のバーでは異彩を放つアメリカンスタイルのミュージックバー。店長の小鹿邦明さんは「16年前にオープンした当時は、こうしたアメリカンスタイルのバーはほとんどなかったと聞いていますから、ウチが先駆けと言ってもいいでしょうね」と話す。

FLASH BACK CAFE オーナーの趣味だという海外ミュージシャンのサイン入りポートレートやライブチケット、貴重なゴールドディスクやポスターなど音楽関連グッズがディスプレイされた店内は、1980年代の人気音楽番組「ベストヒットUSA」的なテイストが横溢。1970~80年代の洋楽ヒットが160曲収録されているジュークボックスや、90インチ大型スクリーンに映し出されるミュージックビデオやスポーツ中継などで、店内は毎晩のように盛り上がっている。また、アメリカでバーテンダー経験のあるオーナー直伝の本場仕込みのドリンクやフードも人気だ。

■企業も横浜のバーに大注目

横浜のバーの歴史や伝統には、企業も注目している。アサヒビールが横浜で展開中の「横浜BARムーブメント」がそれだ。

アサヒビール 「横浜BARムーブメント」はカクテルの楽しみ方の提案などにより、横浜のバーへの集客の促進や「横浜」=「カクテル」のイメージをPRするという試み。これは横浜の集客力を高める事業として、横浜観光プロモーションフォーラムによって認定されている。その事業の一環として、今回は横浜の歳時記に合わせた12種類のカクテルを「横浜Birthday Cocktail」としてセレクト、企画に賛同する横浜市内の87軒のバーで提供し、参加店舗を掲載した「バーマップ」も作成した。

横浜観光プロモーションフォーラム 横浜BIRTHDAY COCKTAIL アサヒビール横浜支社の安藤洋一・営業担当副部長は「横浜のバーが盛り上がってカクテルの人気が高まれば、アサヒビールが『スーパードライ』だけではなく洋酒やワインも幅広く扱っているというアピールにもなりますし、当社にとってもメリットの大きい事業。それに私自身もハマっ子なので、この事業にはひと方ならぬ思い入れがありますよ」と話す。

また、この事業はJR東日本と連携することによって「バーマップ」が首都圏の約200駅で配布されたり、「Yahoo!トラベル」のウェブサイト内 の横浜特集で「横浜Birthday Cocktail」が取り上げられるなど、思わぬ波及効果を及ぼしている。こうした動きに「『横浜BARムーブメント』も当社だけではその広がりに限界がありますが、さまざまな企業と連携することによってより大きな効果が得られます」と、安藤副部長も喜びを隠さない。

Yahoo!トラベル―横浜特集

■開店30分で席が埋まったバブル時代

横浜のバーを取り巻く環境に好転の兆しが見える中、横浜を代表する中華街のバーの現状はどうなのだろうか。関係者たちによれば、「まだまだ元気がない」というのが実際のところだという。

1970年代以降、中華街のバーが最も活況を呈したのは、言うまでもなく1980年代半ばから後半にかけてのバブルの時代。「あの頃は開店30分で席が全部埋まるほどだったよ。それに比べれば、今は当時の盛り上がりの30%ぐらいね」(「ウインドジャマー」ジミーさん)。「グレートウォール」の陳さんも「バーで酒を飲むのに店の前で並んで待っていましたからね。今じゃ考えられない」と、往時を懐かしむ。

バブル以降、中華街のバーが失速し始めたのは景気後退をはじめとする様々な要因があるが、何よりも大きいのは若年層の酒にまつわるライフスタイルの変化だろう。「今の若者は以前ほど酒を飲まないし、飲むにしてもバーよりも割安の居酒屋を利用する」(「メロウクラブ」中田さん)。「フラッシュバックカフェ」の小鹿さんも「バーで酒を飲むことは『男のステイタス』みたいなところがありましたが、そういう発想は今の若いコにはないでしょうね」と話す。

■中華街を一つのレジャーランドに見立てる

「バーで飲む目的だとか、バーの楽しみ方みたいなことがある世代から通じなくなっているんです」と話すのは、「グレートウォール」の陳さん。「バーで飲む最大の楽しみは、未知の人との出会いやバーテンダーとの会話なんです。酒の知識なんて必要ない」。だから、バーを楽しむにはテーブル席でなくカウンター席に座って、バーテンダーとの会話を楽しんで欲しいという。そして、バーとは決して敷居の高いものではなく、もっと気軽なものだとも。ちなみに陳さんのバーでは、これまでに店で知り合った16組のカップルが結婚しているのだとか。

「ネット時代と言われる現在だからこそ、『横浜BARマップ』のようなネットによる情報発信は有効だと思うんです。バーの魅力を僕らがただ語っても説得力がないですからね」(「フラッシュバックカフェ」小鹿さん)。

その辺りは陳さんも十分承知しており、若年層や観光客だけでなく都内で働き食事やレジャーを都内で済ます「横浜都民」のバー利用も増やしていきたいという狙いもあるようだ。そして、最終的にはバー同士の連携だけでなく、中華街の料理店やホテル、元町のショップなどとも連携して相乗効果を図っていきたいという。「中華街と元町を一つのレジャーランドに見立てたらどうか、と考えるんです。それぞれが相互に、横浜へ訪れる人たちに観光情報を提供し合う。一つのエリアで宿泊ができて、ショッピングや食事、お酒を楽しめるような地域なんて、そうそうないですからね。狭いエリアで客を取り合うのではなく、お互いが連携すればきっと集客効果が上がるはず」と、陳さんは期待を寄せる。
歴史と伝統を今なお残す中華街のバー。年々、横浜らしさが街から失われていく中、ひょっとしたら中華街のバーは横浜らしさを残す「最後の空間」なのかもしれない。そんなバーのメッカで「横浜らしさ」を体感してみるのも一興なのでは。

牧隆文 + ヨコハマ経済新聞編集部



0 件のコメント:

コメントを投稿